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わたしの昼下がり
第35章 デパートの紙袋
 そう言いつつも、あの日、△井は、わたしの化粧が崩れたり髪型が乱れるようなことは控えていたことを思い出した。連れ込み旅館で他のカップルの声が聞こえ、わたしも同じような声を上げ、それをまた他のカップルに聞かれていたのかと思うと、いたたまれない気持ちになったとき、△井はこんなことも言っていた。

 『気に病むことはありません。夫や子供に悟られぬように性欲を処理するのも、良妻賢母の嗜みですよ。お家では出せないような声は、こういうところで出せばいいのです』

 △井の言葉と感触をからだの奥に残しながら紙袋を提げて団地に戻ってきたのだった。たしかにバス停から団地までの坂道は、少し急に感じていたかもしれない。

 わたしは夢想する。△井と別れて旅館を出ると、少し先の同じような旅館から彼女が路地に出てくる。わたしは歩みを緩めて距離を取りながら、彼女の後に続いていく。路地から通りに、通りから大通りに出て、彼女がデパートに入って行く。わたしも後に続く。明るい吹き抜けときらびやかな照明。じめじめした薄暗い連れ込み旅館街がすぐ近くにあるとは思えない晴れやかな空間。

 そしてそれぞれ菓子折りを求める。わたしが買うのは夫が好きなどら焼き。彼女が買ったのはショートケーキ。駅で切符を買い、同じバスに乗り、同じ停留所で降りる。

 同じ紙袋を提げるわたしに向こうも気づいていたのだろう。先にバスを降りた彼女が振り返って言う。

 『いろいろ気を遣いますわね』
 『そうですわね』
 『おかしな痕とかついてないかしら』

 彼女は指で髪を直しながら言った。

 『大丈夫ですよ』

 ふたりで並んで坂道を歩いていく。ゆっくりした足取りで。疲れを帯びていると言えばその通りだが、むしろ心地よい疲れというものかもしれない。坂を上り切ると、彼女の棟は左、わたしの棟は右。紙袋の重さが感じられて持ち手を握り直した。

 『ではまた。お気をつけて』

 密かな『嗜み』を済ませてきた二人の良妻賢母が微笑んで会釈を交わす。

 『お、今日は、みどり台に行ったのか?』
 『ええ』

 きっと彼女の家でも、同じような会話が交わされるのだろう。そして彼女もまた、何事もなかったような顔で家族と菓子を食べる。それが、わたしたちの『嗜み』なのだ。
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