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千一夜
第36章 第六夜 線状降水帯Ⅲ ③

初版五万部は、対して大きな賭けではなかった。このご時世、ジャズの専門書が売れるはずがない。五万刷って残れば、伊藤が全部引き取る。伊藤はアメリカでの名刺代わりに、売れなかった自分の本を渡すつもりでいた。ところが……。
伊藤が書いた本は売れた。正確に言うとあっという間に売れてしまった。ラジオ局のショップで発行の知らせを出すと、予約だけで十万近くになったのだ。
例えば本が百万部売れたとしても、伊藤には一円も入ってこない。そもそも伊藤はこの本の印税を寄付することにしていた。そして和子も翻訳者としての印税を受け取らなかった。
教育界のドンと和子の狙いは、ずばり伊藤だ。微々たる印税の収入よりも時代の寵児と接点を持つことが大事だったのだ。その接点は和子の価値を上げ、金を呼ぶ。
出版記念の催しはすべて終わった。伊藤に対するラジオ局の役員や従業員たちの態度が変わった。アルバートの孫娘も、担当する番組の数が増えた。
「ようやく終わったわね」
「お陰様で」
「あとひと月くらいこっちでのんびりしていたわ」
「大学が先生を待ってますよ」
「あーつまらない。全部休講にしたいわ。学生たちだってそれを望んでいるはずよ」
「……」
「それにしても凄いわ。シェフを呼んで料理を作らせるなんて」
「お口に合いましたか?」
「最高のイタリア料理だったわ」
「それはよかった」
「ねぇ伊藤君」
ワイングラスを片手に、和子は悩まし目を伊藤に向けた。
「何ですか?」
「どうしたらこんな風になれるの?」
「こんな風とは?」
「どうやったらアトランタの一等地に豪邸が買えるのかということ。そしてその豪邸に一流のシェフを呼ぶなんて普通の人間にはできないわ。どうすればいいのよ」
「ただ芝居を作っていただけです」
「貧乏劇団だってあるじゃない。恵まれない劇団の方が多いんじゃないの?」
「よくお分かりですね」
「激しい競争の中でどうすればいい芝居が作れるの?」
「いい本を書く。いい役者を集める。演者が泣こうが喚こうが、演出を妥協しない。それからその芝居に金を出すスポンサーを探す」
「優等生の発言ね。許してあげるわ」
「……」
「アトランタ最終日の夜よ。何だかわくわくするわ」
「……」
「私ね、初体験なのよ。正直に言うと胸がドキドキしているわ」
「じゃあもう一杯飲んだら始めましょうか?」
「ふふふ、いいわよ」
伊藤が書いた本は売れた。正確に言うとあっという間に売れてしまった。ラジオ局のショップで発行の知らせを出すと、予約だけで十万近くになったのだ。
例えば本が百万部売れたとしても、伊藤には一円も入ってこない。そもそも伊藤はこの本の印税を寄付することにしていた。そして和子も翻訳者としての印税を受け取らなかった。
教育界のドンと和子の狙いは、ずばり伊藤だ。微々たる印税の収入よりも時代の寵児と接点を持つことが大事だったのだ。その接点は和子の価値を上げ、金を呼ぶ。
出版記念の催しはすべて終わった。伊藤に対するラジオ局の役員や従業員たちの態度が変わった。アルバートの孫娘も、担当する番組の数が増えた。
「ようやく終わったわね」
「お陰様で」
「あとひと月くらいこっちでのんびりしていたわ」
「大学が先生を待ってますよ」
「あーつまらない。全部休講にしたいわ。学生たちだってそれを望んでいるはずよ」
「……」
「それにしても凄いわ。シェフを呼んで料理を作らせるなんて」
「お口に合いましたか?」
「最高のイタリア料理だったわ」
「それはよかった」
「ねぇ伊藤君」
ワイングラスを片手に、和子は悩まし目を伊藤に向けた。
「何ですか?」
「どうしたらこんな風になれるの?」
「こんな風とは?」
「どうやったらアトランタの一等地に豪邸が買えるのかということ。そしてその豪邸に一流のシェフを呼ぶなんて普通の人間にはできないわ。どうすればいいのよ」
「ただ芝居を作っていただけです」
「貧乏劇団だってあるじゃない。恵まれない劇団の方が多いんじゃないの?」
「よくお分かりですね」
「激しい競争の中でどうすればいい芝居が作れるの?」
「いい本を書く。いい役者を集める。演者が泣こうが喚こうが、演出を妥協しない。それからその芝居に金を出すスポンサーを探す」
「優等生の発言ね。許してあげるわ」
「……」
「アトランタ最終日の夜よ。何だかわくわくするわ」
「……」
「私ね、初体験なのよ。正直に言うと胸がドキドキしているわ」
「じゃあもう一杯飲んだら始めましょうか?」
「ふふふ、いいわよ」

