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独りの部屋
第36章 静かな水音の奥に

午後六時。プールサイドには、もう誰もいなかった。
蛍光灯に照らされた水面は静かにゆらぎ、窓の外の夕闇がじわりと滲む。
「今日も……最後まで、頑張ったわね」
その声は、微かに笑みを含んでいた。
私はビート板を抱えたまま立ち尽くし、振り返る。
そこには、タイトなジャージ姿のコーチ――高瀬が立っていた。
彼女は三十を過ぎたばかり。
強く、しなやかな身体。指導は厳しいが、時おり見せる横顔はどこか儚げだ。
「コーチ……まだ、帰らないんですか?」
「あなたこそ。……水が好きなのね」
高瀬がゆっくりと近づく。
足音が、濡れた床に吸い込まれていく。
私は、答えられなかった。
本当は、水よりも――この人といる時間が、ただ嬉しくて、名残惜しくて。
「……この時間、静かで好きよ。誰にも邪魔されないし」
言いながら、高瀬は私の肩にタオルをかけてくれる。
その動作が、あまりにも自然で、そして優しすぎて――
私はふいに、息をのんだ。
タオル越しに感じたぬくもりに、背中がざわつく。
「……コーチ」
呼んでしまった声が、震えていた。
気づかないふりをしてほしいのに、彼女の視線はまっすぐ私を射抜いた。
「……あなた、いま、少しだけ震えてた」
「……」
「怖いの? それとも……」
すっと、彼女の指が私の頬に添えられた。
指先が熱くて、呼吸がうまくできない。
心の奥で、ずっと隠してきた想いが、泡のように浮かんでくる。
「高瀬コーチ……私……」
「言わなくていい」
唇が近づいた。
水音が、心臓の鼓動のように耳に響いていた。
濡れた髪の先が、彼女の喉元に触れたとき――
私は、抗えなかった。
完
蛍光灯に照らされた水面は静かにゆらぎ、窓の外の夕闇がじわりと滲む。
「今日も……最後まで、頑張ったわね」
その声は、微かに笑みを含んでいた。
私はビート板を抱えたまま立ち尽くし、振り返る。
そこには、タイトなジャージ姿のコーチ――高瀬が立っていた。
彼女は三十を過ぎたばかり。
強く、しなやかな身体。指導は厳しいが、時おり見せる横顔はどこか儚げだ。
「コーチ……まだ、帰らないんですか?」
「あなたこそ。……水が好きなのね」
高瀬がゆっくりと近づく。
足音が、濡れた床に吸い込まれていく。
私は、答えられなかった。
本当は、水よりも――この人といる時間が、ただ嬉しくて、名残惜しくて。
「……この時間、静かで好きよ。誰にも邪魔されないし」
言いながら、高瀬は私の肩にタオルをかけてくれる。
その動作が、あまりにも自然で、そして優しすぎて――
私はふいに、息をのんだ。
タオル越しに感じたぬくもりに、背中がざわつく。
「……コーチ」
呼んでしまった声が、震えていた。
気づかないふりをしてほしいのに、彼女の視線はまっすぐ私を射抜いた。
「……あなた、いま、少しだけ震えてた」
「……」
「怖いの? それとも……」
すっと、彼女の指が私の頬に添えられた。
指先が熱くて、呼吸がうまくできない。
心の奥で、ずっと隠してきた想いが、泡のように浮かんでくる。
「高瀬コーチ……私……」
「言わなくていい」
唇が近づいた。
水音が、心臓の鼓動のように耳に響いていた。
濡れた髪の先が、彼女の喉元に触れたとき――
私は、抗えなかった。
完

