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”She”
第1章  
その日は1日中、僕は上機嫌だった。

担当するステーションが潰れそうなほど忙しくても、ディッシュ(皿洗い)に回っても、気持ちが舞い上がりそうに軽い。

梨花さんの声が聞こえるだけでふわふわするし、店内ですれ違いざまに目があおうものなら昇天してしまいそうだった。
 
そのときの僕は、こんなふうに思っていた。

今この店で1番の幸せ者はこの僕に間違いない。と。


バイトを上がり、パートさんと話していた梨花さんとは今までのようにお疲れ様でしたと言って店で別れた。

その日の夜一人暮らしのアパートで、僕はハッと我に返って硬直した。

梨花さんは僕のものじゃないんだ。


僕は梨花さんが既婚者であることも、旦那さんと仲良しなこともよく知っている。
本当なら僕が入る隙などない。

なのに梨花さんは、僕にキスを許す。

これは一体どういうことなのだろう。

僕は遊ばれているのか・・?
それとも実は旦那さんとうまくいかなくて、僕に気持ちが傾いている?

どちらも違う気がする。

あのしっかり者の梨花さんが、年下の男をたぶらかすような不埒なことをするわけがない。
あの明るくて可愛い梨花さんを、旦那さんが手放すわけもない。

ならば、どういうつもりなんだろう。


僕は梨花さんと一線を越えて(といってもキスだけだが)しまって、かえって梨花さんの本心が見えなくて苦しむことになった。

こんなことなら、遠くから片思いのままこっそり見ている方が幸せだったかもしれない。


梨花さんと離れ離れでいる間、僕はこれまでよりも鬱々と過ごすようになった。

そんな僕の様子に気づいたのはいとこの杏子で、あるとき飲みに誘われた。

杏子は三歳年上。小さいエステサロンのオーナーだ。
閉店後のサロンの応接室に、杏子がカルディで買ったワインと、チーズや生ハムを用意してくれた。

「最近文哉、元気ないなと思ったら、苦しい片思い中だったんだぁ。」

「心配かけてごめんね、杏子。」

「いいよいいよ。しかし、年上の人妻とはね。大変な相手を好きになっちゃったんだね。」

「好きになったらいけない相手だよ。忘れることができたらどんなにいいか・・」

「そうだ、じゃあ、今晩だけでも忘れるくらい激しいこと、私としようよ・・久しぶりに」

杏子は、隣に座っていた僕の手を取る。

「ベッドに来てよ、文哉」
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