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爛れる月面
第2章 湿りの海
 憶えはあるが馴染みはない、チクリとした毛先がうなじを擦る。トーンダウンした紅美子の長い髪を鼻で押しのけて、首すじを唇が這っていく。少しでも吸着されれば、痕が残る。恐懼が足を小さく踏ませた。

「い、いいかげんに……」
「無理だって、言ってるだろ。こんなすごいカラダを見せられたらな」
「うっ……」

 たかだか三日前の、カウチソファの上で交わした会話の記憶が、封を破って漏れ出そうとする。
 紅美子は腕を引きはがそうとしていた両手を、自分の耳に強く押し付けた。

「……もう強がるなよ」
 しかし井上の声は、バスルームという場所の力も借りて、浸透するように鼓膜を震わせてきた。「本当は覚悟なんかできてないくせに」
「うるさい……」
「言ったろ、女は素直が一番だってな」
「うるさいってっ! べつに、どうって、こと──」
「いいや君は怖がってる。こうやって抱きしめていればわかる」
「あんたに、何がわかんのよっ」
「徹くんのことを考えるなってほうが無理だろうからな」
「……っ!!」

 絶対に、音韻として並べたくはなかった名が、流し込まれた。封は完全に吹き飛び、生々しく、グロテスクに紅美子の脳内を跋扈する。言葉だけではなかった。夢に見た、さまざまな表情、仕草。一度たりとも逸れることなく、ひたすら向けられてきた二十年ぶんの彼の愛慕は、そう易々と封じ込められるものではなかった。

「──いやあっ!!」

 紅美子は金切り声をバスルームに響かせた。

 だが井上はうろたえることなく、激しく頭を振るう紅美子の向きを変えさせ、鏡へと近寄らせた。

「前を向け」
「い、いや……、いやよ……」
「いまから君を抱くのは、徹くんじゃなく、この僕だ。君が、自分の足で、僕に抱かれに来たんだ。そうだろ?」

 髪ごと頭を掴み、上向かせようとする。今にも肉片となって爆発してしまいそうな妄覚に、顎が上がっても瞼を締め、髪が引っ張られようが頻りに首を横に振り続けた。
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