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爛れる月面
第2章 湿りの海
「……」

 ロッカーの裏には、小さな鏡が取り付けられていた。
 自分が映っている。

 残業を申し出たのは、時間稼ぎ──いや何も稼げてはいなかった、現実逃避に他ならなかった。

 いつまでも、逡巡している場合ではない。必ず、取り返さなければならない。

 残念ながら、指輪に魔除けの効果は無かった。だからこそ、今の自分にはあの指輪が必要なのだ。

 紅美子は顔の半分しか映らない距離まで近づいた。

 自分は、婚約をしている。
 誠実でなければならない──

 ノックをする前に、ひとりでにドアが開いた。

 既にスーツを脱いでいた井上は、体にフィットしたアンダーシャツに逞しい胸板を浮かび上がらせている。ボクサーブリーフから伸びる脚も筋肉質で引き締まっており、中年と言われる年齢なのに見事な肉体だ。

「……なんで居るってわかったの?」
「気配だよ。なかなか来ない君をずっと待っていたからね」
「なにそれ、キモい」

 意識的に、足を肩幅に開き、腕組みした姿勢を取ると、

「冗談だ。フロントで部屋を聞いたろ、こっちに連絡があった。入らないのか?」
「別にいいんじゃない? 指輪返してもらうだけだし」

 組んでいた片手だけを崩し、手のひらを井上の前に差し出す。

「約束したはずだけどね。返すための条件」
「は? 条件とか馬鹿みたい。脅迫しようっての?」
「怖くなったんなら、帰ったらいいじゃないか。あんな安物の指輪のために、怖い思いをする必要はない」

 井上は入口のへりに肘をつき、紅美子の方へ身を乗り出した。スーツを脱いでも、仄かにシプレの香りが漂ってくる。

 別に、どうということはない。

 頭の中で反唱するも、言葉にできないでいる紅美子を見つめていた井上は、やがて、クッ、クッと呑みこむような声を浴びせた。
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