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爛れる月面
第2章 湿りの海
 抱く、宣言しているのに、行くわけがない。
 行ってはならない──

 背伸びをして井上につかまりつつ、紅美子は、ごく小さく、頷いた。

 踵を地に下ろされる。凶器が抜け出ていく。

 背を向けて素早く下衣を整えた井上は、

「続きは夜だ」

 微塵の未練なく個室を去っていった。

 紅美子は背を引きずって腰を下ろした。膝をつけて閉じても、貫かれたばかりの場所が痺れていた。


   *   *   *


 重厚なドアには、フロントで聞いた通りの部屋番号のプレートが光っていた。

 この部屋に、入ってはいけない──脳内にずっと、警鐘は響きどおしだった。

 トイレでの玩弄のショックは、自席に戻っても和らごうはずはなかった。裂かれたストッキングを脱ぎ捨てたスカートの中で、嫌悪と疚しさが混ざり合い、渦巻いている。

 今日に限って一人の事務室。

 もしも今日、紗友美がいたら、井上もあんな暴挙に出なかったのかもしれない。
 もしも昨日、紗友美さえいなかったら、早田と飲みに行くこともなかったかもしれない。

 仮定が頭に浮かんでは、収束することなく居座り、新たな思索を誘って底の見えない煩悶の沼へと引きずり込む。どうしても、至近から自分を見据えてくるあの髭面が、頭から離れない。

 むろん、作業の効率は覿面に落ちた。定時少し前に事務室に顔を出した係長は、大きなものは終わっているので残りは明日でいい、と言ってくれたが、紗友美が休みだし、自分も遅刻をしてしまったので最後までやらせてほしいと頼んだ。経理担当を待たせてまで入力し終えた頃には、時計は八時に差し掛かろうとしていた。子供が生まれたばかりなのに残業する羽目になった経理担当は、紅美子が詫びると責めるどころか一人で処理し切ったことに感謝し、しかも、「顔が青いけど大丈夫?」と心配までしてくれた。仕事が終わってしまったことが、そんなにも顔色を悪くさせていたのかと気づかされ、これを隠すために重ねて頭を下げ、逃げるように更衣室へと向かった。
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