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爛れる月面
第3章 広がる沙漠
 せっかく恬淡を装っているのに、いくばくも経たないうちに崩されそうになっているので気を落ち着け、

「あんたが怒らせるようなことをするからよ」
「久々に会ったんだから、もっと喜んでくれると思ってたんだけどな」
「そんなわけないでしょ。いきなり刺すかもしれないけど」
 紅美子は車窓を流れる景色へ不安げな顔を隠した。「……ねえ、ほんと、どこ行く気?」

 アウディは高速でカーブに入っても、抜群の安定感で両国ジャンクションを抜け、しばし並走した隅田川とも別れて箱崎ジャンクションへの直線に入っていく。

「温泉」

 井上が、一言で答えた。

「……。何、それ?」
「いくらなんでも、温泉が何かくらいは知ってるだろ」

 笑い声を挟み、江戸橋ジャンクションでウインカーを出すと、本線から左へと反れていった。

「怒らせたくて、そんな冗談言ってるの?」
「行きたいから言ってる。冗談でもない」
「ちょっと停めて。帰る」

 やっと、運転席へと体を向けて詰め寄ったが、

「無理だね」ドライバーはにべも無く、「停めようがない」
「高速降りて」
「そんなに嫌がらなくてもいいだろ。愛人と内緒でどこか行くっていったら温泉っていうのが相場だ」
「誰が愛人だっ!」

 ついに声を荒げてしまった紅美子が、井上の腕に爪を立てた。

「たぶん今、僕の好きな目をしてるんだろうけど痛い。事故ったらどうする」
「事故ってでも停める」
「それで二人とも死ねたらいいけどね。片方だけ死んだら、生き残った方は地獄だな」
 どれだけ指先に力を入れてもスピードは緩められず、「僕には妻も子供もいて、仕事を終えて日本に戻ったら真っ先に君に会いに来てる。君も、僕に誘われて会社を早退して会いに来てる。事故死した二人の行動を洗われたら、不倫以外の何ものでもないぞ、これは」
「……」

 紅美子は井上の腕を払うように爪を外し、背を打ち付けてシートに座り直した。

「誘ってんじゃなくて、拉致じゃん、こんなの……」
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