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爛れる月面
第1章 違う空を見ている
 最後の言葉で一段と硬度が上がった徹を、おそろしくぬかるんでいる中へと取り込んでいった。


   *   *   *


「なーんかもう、長谷さんがツヤツヤしてんのが、ムカついてしょうがないんですけどー」

 出し抜けに、向かいのデスクから紗友美がぼやいた。

「……は?」
「彼氏に会いに行ったんですよね、土日」
「そうだけど」
「あーん……」両手を組んで頬に寄せ、体をオーバーにくねらせて、「愛しい人との限られた時間、お互いの愛を深めて来たんですねぇ……。想像するだけでタマらんわ、こりゃ」
「あのね、手、動かして。終わんないよ、今日。こんなにあるんだからっ!」

 紅美子は冷然とした表情で、デスクに積みあがっている伝票を叩く。

「そりゃ、長谷さんは? 彼氏、っつーか婚約者に? いっぱい可愛がってもらって? パワー充填して帰ってきてますけど? 私は一人さびしく? ハイボール飲みながら? エイヒレ食いながら? 無料公開の連ドラ全話見切ってしまった、そりゃもう、かなしーい女なんです。私の三倍は働いてもらわなきゃ困ります」

 紗友美は背が低く、いかにも女の子らしい、可愛らしい顔立ちをしている。大学卒業後に就いた生保レディを半年で辞め、紅美子と同じ派遣会社からやってきていた。飲みに行くといつも、自分は男と長続きしない、と愚痴を言う。

「わけわかんないこと言ってないで。ったくオッサン社員じゃなく、光本さんにセクハラされるなんて思ってもみなかったわ。ほら、やるよ」

 口を尖らせる紗友美を鼓舞し、入力を再開しようとすると、いきなり事務室のドアが開いた。顔を出したのは、銀縁メガネで眠そうな目をした矮男、社長だった。いつもは作業着なのに、今日は股上の深いスーツを着ている。サイズが合っていないので大きく弛んで見せるし、デザインも何十年前のものかわからない。

「あー、長谷さんっ。応接室にお茶三つ……いやコーヒーだ。コーヒーを三つ、出前して応接室まで持ってきてくれ。すぐにだよっ。そうだ、先週金曜に業者から貰ったお菓子あっただろ? それも忘れず付けてくれ。急いでなっ」

 そうまくしたて、三千円を机に投げ置くと、けたたましくドアが閉められた。ただでさえ紗友美の生産性の悪さで定時に終わらない可能性が濃厚になってきているのに、余計な時間を使わされるかと思うと舌打ちが出た。
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