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石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
第8章 第二話・参

黄昏刻の空が茜色に染まっている。
見慣れた長屋が何故かとても懐かしい。たった一日見なかっただけなのに、もう数日、いや十日も見ていなかったような気がしてならない。西の端から茜色に染まった空が徐々に菫色に変わってゆく。夕暮れの空を背景にした徳平店は随分とこぢんまりとして見えた。
見憶えのある我が家の前に佇むと、お民は逡巡した。嘉門がお民を連れ込んだのは、随明寺門前道沿いの出合茶屋の一つであった。幸いにも、女将の機転と気遣いで嘉門が再び訪れる前に、逃れることができたお民は一旦は随明寺に身を隠した。
どうしても、あのまま真っすぐに徳平店に戻ることができなかったのだ。随明寺には広大な境内に諸伽藍が点在しているが、その中の絵馬堂に身を潜めていた。絵馬堂はその名のとおり、願い事を記した絵馬を奉納するためのこじんまりとした御堂だ。正面の両扉にはそれこそ無数の絵馬が掛けられていて、一種独特の雰囲気が漂っている。
随明寺の中でも奥まった場所にあり、しかもこの界隈は昼間でも人気がないことから、人眼を忍ぶ男女の逢い引きなどにもよく使われているという。
お民はその御堂の中に夕方近くまでいた。
だが、流石に陽が暮れてくると、このまま夜を明かすわけにもゆかず、随明寺を出てきた。この近くをうろうろしていて、また嘉門に見つかっては元も子あったものではない。そう考えている中に、気が付けば、懐かしい我が家の前に立っていたのである。
長い春の陽も暮れ、周囲に薄い闇が漂い始めた。空は菫色から、夜の色へとうつろおうとしている。
長屋の家々にも次々に灯りが点り始める時刻になった。ふっと、眼の前が明るくなり、お民は眩しさに眼を細めた。
腰高障子越しに、長い影が映っている。まるで影絵を見るかのように、黒い影がゆらゆらと揺れていた。
懐かしさに、じんわりと涙が滲む。
その時、突如として向こうから腰高障子が音を立てて開いた。
ひっそりと佇むお民を見て、源治が息を呑んだ。
「お前さん、私―」
呟くと、溢れた涙が雫となって、つうっと頬をつたった。
「お民」
見慣れた長屋が何故かとても懐かしい。たった一日見なかっただけなのに、もう数日、いや十日も見ていなかったような気がしてならない。西の端から茜色に染まった空が徐々に菫色に変わってゆく。夕暮れの空を背景にした徳平店は随分とこぢんまりとして見えた。
見憶えのある我が家の前に佇むと、お民は逡巡した。嘉門がお民を連れ込んだのは、随明寺門前道沿いの出合茶屋の一つであった。幸いにも、女将の機転と気遣いで嘉門が再び訪れる前に、逃れることができたお民は一旦は随明寺に身を隠した。
どうしても、あのまま真っすぐに徳平店に戻ることができなかったのだ。随明寺には広大な境内に諸伽藍が点在しているが、その中の絵馬堂に身を潜めていた。絵馬堂はその名のとおり、願い事を記した絵馬を奉納するためのこじんまりとした御堂だ。正面の両扉にはそれこそ無数の絵馬が掛けられていて、一種独特の雰囲気が漂っている。
随明寺の中でも奥まった場所にあり、しかもこの界隈は昼間でも人気がないことから、人眼を忍ぶ男女の逢い引きなどにもよく使われているという。
お民はその御堂の中に夕方近くまでいた。
だが、流石に陽が暮れてくると、このまま夜を明かすわけにもゆかず、随明寺を出てきた。この近くをうろうろしていて、また嘉門に見つかっては元も子あったものではない。そう考えている中に、気が付けば、懐かしい我が家の前に立っていたのである。
長い春の陽も暮れ、周囲に薄い闇が漂い始めた。空は菫色から、夜の色へとうつろおうとしている。
長屋の家々にも次々に灯りが点り始める時刻になった。ふっと、眼の前が明るくなり、お民は眩しさに眼を細めた。
腰高障子越しに、長い影が映っている。まるで影絵を見るかのように、黒い影がゆらゆらと揺れていた。
懐かしさに、じんわりと涙が滲む。
その時、突如として向こうから腰高障子が音を立てて開いた。
ひっそりと佇むお民を見て、源治が息を呑んだ。
「お前さん、私―」
呟くと、溢れた涙が雫となって、つうっと頬をつたった。
「お民」

