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爛れる月面
第2章 湿りの海
「酒も頼めば持ってきてもらえるぞ」
「お酒はやめたの」
 肉体だけはいくばくの回復をみた紅美子は、思索を吹っ切るようにさっと起き上がり、「あんたのせいよ」

 ベッドに置かれた箱からティッシュを何枚か摘み取ると、脚の間を拭った。

 井上は肩を竦め、

「何でもいいから飲んだほうがいい。自分の周りを見てみろ。いくらなんでも噴きすぎだ。脱水症状になる」
「ほっといて」

 股間を拭き取っている姿を眺めてきても、紅美子は身を背けることなく、粘液の染みたティッシュを丸めてシーツの上に捨てた。下肢をベッドの縁まで引きずって立ち上がる。首を巡らせて追ってくる視線とは目を合わせずに、途中のチェアに置いてあったバッグからシガレットケースを取り出し、一本咥えて窓際へと向かった。一人掛けのソファセットには、丸テーブルの上に部屋に来るまで飲んでいたらしいワインセットがあった。ボトルを冷やす氷が、ずいぶんと小さくなって水に浮かんでいる。

「君が朦朧としてるあいだ、携帯が鳴ってたぞ」
 井上が瓶を持った手でバッグを指さし、「それから、この部屋は禁煙だ。昨日も一昨日も言ったはずだ」
「そ。じゃ、今日も謝っておいて」

 ソファに腰掛け、火をつける。長く煙を吐き出し、窓の向こうのライトアップされた東京駅の復元駅舎を眺めた。手前にはタクシーの車列のライトが並び、広場では建物をバックに楽しげに写真を取っている人々がいる。窓に重ねるように掲げたワイングラスをタバコで叩くと、残っていた鳥の子色の液体の中を、灰が崩れながら落ちていく。頭痛がしてきた。昨日も、一昨日もそうだった。こめかみの辺りを、風邪をひいたときとも、生理のときとも違う鈍痛が襲ってくる。

 丸テーブルに音がした。外とは別世界に思える室内に目を戻すと、自分の携帯が置かれていた。
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