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爛れる月面
第2章 湿りの海

届いたメッセージは、紅美子に溜息をつかせなかった。
『ほんとごめんなさい! 昼から行けたら行きます!』
紗友美の「行けたら行きます」は大抵来ない。
できれば、今日は彼女とは顔を合わせたくない、と思っていた。
昨晩家に辿り着くや、酒の入っていた母が自分よりも遅く帰って来た娘に対し、ただでさえ婚約者と離れて暮らしているのに、ふらふら夜歩きなんかするんじゃない、と苦言をぶつけてきた。何も知らないくせに──反駁が口を衝いても良さそうなものなのに、出てはこなかった。あの夏の朝、娘に口走ってしまったことを、母は知らない。
素直に謝って母を驚かせ、これ以上話していると驚かせるだけでは済まなくなりそうで、娘の不自然な髪に気づいていないうちに脱衣所へと逃げた。洗面台の鏡の前で、頬へ垂らしていた髪を脇に除ける。こめかみの辺りが凝っている。紅美子は古皮を剥ぐように衣服を脱ぎ捨てて、再び鏡の中の全身を眺め見た。見ただけではわからない。徹がいつも褒めてくれている通りなのかもしれない。だが、いまだ肉体の中心には、脈動で跳ねる劣欲の塊と流れ出てきた粘液の感触が、烙き付けられたかのように居残っている。
シャワーを浴びて床に入っても、目を瞑っただけと言える眠りだった。起きぬけから全身が気怠く、何をしてものろく、いつも家を出る時間になっても、まだ出勤準備にも手をつけられていなかったところへ、紗友美からのメッセージが届いたのだった。
紗友美は会社に来ない。今時期に回ってくる伝票の量を想像する。どうせいつ切られるかもわからない派遣なのだから、責任を感じて無理することはないと思いながらも、このまま家に居り続けるのはあまりにも危険だった。

